Kokopelli

河原愚風の小説やエッセイを載せています。

Back Off

河原 愚風

 

目次

1)ダーティサーティズ 素人レーシングチーム

2)第1レース 125cc以下クラス

3)耐久モトクロス エンデューロレース

4)Back Off 俺のリアタイヤを見ろ!

 

 

1)ダーティサーティズ

 

 素人モトクロスチーム、ダーティ・サーティズの3台のエンデューロマシンを積んだトランスポーターと、ダークグリーンのランドローバーは、美女木の国道4号線を左端車線へウィンカーを点滅させながら減速した。チームは、川越の荒川と入間川に挟まれたオフロードサーキットへ向かう途中だった。

 レースの開催日の早朝には、何時も皆で縁起を担いで朝食を国道沿いにある、このフランチャイズうどん屋で“勝丼”を食べる事にしていた。それが彼等の暗黙のルールの様になっていた。まだ駐車場には定期トラックの運転手や、行楽地へ向かう家族連れの車も少なかった。2台の   車を並べて停めると、何時もの窓際の席を占領した。

 ランドローバーには“マサ”と“コグ兄ィ”と“リエちゃん”が乗っていた。トランスポーターには、“親父”と“圭ちゃん”が乗っていた。この5人が、横浜の“ダーティ・サーティズ・レーシング・チーム”のフルメンバーだった。すっかり明るくなってきた川越の空模様を見上げながら、テームのライダー達は雨を気にしていた。

 

「天気、なんとか持ちそうだよなぁ…」

「あぁ、うちのチームは誰もレインタイヤ持って無いもんなぁ……雨降ったら、空気圧落として走るっきゃあ無いよなぁ……辛いなぁ貧乏チームって奴は」

「全員の雨対策は、ビードストッパーだけが頼りだもんなぁ…ウチのチームは」

「でもさぁ、レインタイヤ持ってる奴なんて、2割も居ないぜきっと。アマチュアなんて雨が降ったら出走しない奴だって結構居ると思うよ。俺達のレベルじゃあ、そんなもんだよ」

「俺達だって、真面に重馬場で走った事      無いもんな…やっぱ雨は嫌だよな。怪我しない内にズラかった方が利口かな?」

マサの眼が、一瞬冷たい光を帯びた。

『スタートを切る前から、白旗の言い訳なんかするんじゃあねえよな、まったくよう…これからレースを控えた、エントラントライダーなんだぜ俺達は……いくらロートルポンコツの爺さん達でもな…』

 

 声にこそ出さなかったが…マサは舌打ちをした。確かに俺達ゃポンコツさ。でもさぁ、レースのスタートが怖けりゃ、エントリーなんかするんじゃあねえよな。公道の隅をトロトロ走ってりゃいいのさ。それを誰も非難はしやしないさ。俺達が若いモンに混じって走るのは、自分自身の残り少ない“若さ”を燃やすんじゃあ無いのかい?本気で俺達を相手にしてくれるあの“気のいい奴等”に申訳ないだろうが?

 丁度うどん屋の駐車場に、見覚えのあるトランポが数台入って来た。マサ達の顏馴染みのチームだった。国道からマサ達のレーシングチームのトランポを見付けたらしく、ドヤドヤと乗り込んできた。30才代絡みの兄弟と、その仕事仲間と恋人達のチームだった。

 

「オッス!流石に高齢者チーム達は朝早いスねぇ」

「おい、おい年寄り達をもっと大事にしろよな。ところで今日の調子はどうだ?」

「雨が降ってくれれば結構面白いレースになるんだけどな……今日の為に新品のピレリの雨タイヤ用意したんで、勝負を掛けるつもりだったんだけどね……どうやら今日は降りそうも無いや」

「鷺ノ宮レーシングが、今朝一番に僕等の場所も取ってくれてる筈なんだけどさぁ……でもあんまり仲良くなると、ここ一番の勝負の時にやりにくいよな。あぁカワサキ市役所の場所も頼んどいたよ」

「そりゃあ有難いけど、俺達ゃ周りから嫌なグループに見えないのかい?」

「そいつは大丈夫だよ。特におじさん達は、根こそぎトロフィーかっさらっていかないもんな。絶対にみんなからは、エントリーするだけの安全パイだって思われてるよ」

「そうだよ。絶対に嫌われちゃあいないよ。先週だって隣にパドック造っていいかって申し込まれたよ。良く会う八王子のヤマハのチームだったけど。別に俺達のパドックじゃあないよって云っといたけどね。仲間になりたいらしいよ」

「毎回俺達ゃ賑やかだからなぁ。でも最後に、ごっそりカップまで持って帰るんで、やっぱ少しは嫌われてるかな?」

「あのなぁ、言っとくけどウチのチームは1回も表彰台に立った事ないんだからな」

「だから、オーバー50クラスで出れば絶対入賞できるよって。マサさんの速さがあればさ…、今だって相手次第じゃあ、イイ線行ってるんだからさ。頭から2~3台絡んで消えちまえば、絶対に表彰台だよ。上手く行けば優勝だぜ」

「……若い君達にゃあ、俺の気持ちは解らねぇって…。何時かあんたらに、最終コーナーの立ち上がりで俺のリヤタイヤのブロックパターンを拝ませてやるからよ」

「おぉ、怖わ!でもホントにマサさんがさ、あと20年若かったらあり得るよな……」

「そう、そう。第一俺達20年経ったら、きっと     もうバイク降りてるだろう?50過ぎの俺達に今の、マサさんのスピードは絶対に出せないよ。マジにいつもそう云ってるんだぜ、俺達は……」

「ちぇっ!まるっきり褒めてねぇよなぁ。つまり俺は速く無えって事か?その云い方は」

「ははは、解った?まぁ今日も一つお手柔らかにね。あっそうだ!今日の昼は、うちの女性陣がソースヤキソバに豚汁造るってさ。一人あたり豚汁付豪華セットで400円だよ。ジョニー・オー・ショー・ランチって呼んでよね。もう材料買ってあるからね。市役所チームのテーブルと鉄板当てにしてるよ。なにせ10人前だから、今日は大変だ。お宅のチームのお姉様連も手を貸してよ」

「あぁいいさ、手は貸すよ。それにキャンプ用の鉄板はトランポの後ろに積んであるよ。カッセットガスの2バーナーも有るけど、今日は油はないぞ」

「大丈夫、大丈夫、ウチのチームで用意したよ。多めに作るから、余ったソースヤキソバ一皿500円、紅ショウガ付。それと豚汁1杯300円で、きっと飛ぶように売れるぜ!またどっかの家族連れが、残り物を全部で5千円で売ってくれって来るぜ。アッ、しまった!フルーツかなんかデザートも用意してくりゃあ良かったかな?失業したら露天商できそうだよな、俺等」

「随分しっかりしてるな、あんた達は!」

 

 8時からクラブハウスでレースの受付を済ませ、レースのエントリーフィー7,000円也を払った。メッシュ地のクラス別ゼッケンを貰い、出走申込書の誓約書にサインと捺印をした。怪我の掛け捨て保険と、主催者に死亡事故と重度障害の場合に賠償を放棄すると云う書類だった。毎回の事だったが、“死亡”と云う文字に、俺達のやっている事が如何に危険なスポーツかって事を改めて思い知った。受付には、どんどん新しいエントラント達が到着しだした。

 マサ達も、荒川と入間川の中州に有るオフロードサーキットに移動した。サーキットのゲート前には、既に参加者のトランポの列が出来ていた。マサ達のレース参加も、もう1年以上の経験になるので、トランポに積んであるバイクの様子で、ニューカマー達の力量を量った。ゲートを抜けると、コースに近いパドックの1等地で、鷺ノ宮レーシングの仲間が俺等を呼んでいた。

 

「おーい、こっち、こっち。いい場所取っておいたよ。どう、いい場所だろ?真ん中にカワサキ組のタープを囲むようにしてあるから、うまく停めておくれ」

「悪いねェ、鷺の宮。わざわざ場所キープしてもらって」

「なんの、なんの。トランポの横でみんなでバカ言ってるのが、俺はレースより一番楽しいものね。知らない奴に駐車されるより、みんなと一緒の方がよっぽど楽しいさ」

「そう云ってくれるなら遠慮はしないよ。そうだ、今日の昼は皆でソース焼ソバと豚汁だって、宮さんトコの美夏ちゃんが云ってたぞ」

「あっそれ、実は俺のリクエストすよ。先週、レース日はソース焼ソバがいいなって俺云ったからですよ」

「そうか…かなり多目に造るから、また弁当持ってこないエントラント達に売り捌くって云ってるぞ」

「いいんじゃあ無いスか?周りも結構、俺等の昼飯楽しみにしてるみたいだしね」

 

 鷺ノ宮レーシングの村井は、たった一人のレーシングチーム?だった。35才で独身。東京瓦斯の社員らしかった。長身の恵まれた体躯と、その思い切りのいいライディングは、ここのコースをベースにするライダー達の中では、群を抜いていた。愛車はHONDAのCRM250。

 このCRMが新発売される時期に、カワサキが今までのトレール車のレベルを超える200㏄のオフロード車の名車、KDX200SRの新規発売をぶっつけてきた。それまでのカワサキのKMX200を、全面的に新設計し直したKDX200SRは、折からのオフロードバイク界に新風を吹き込んだ。

 十分なストロークを持つ業界初の倒立サスペンション。ボディサイズは200CCのコンパクトなサイズながら、250CCクラス並みの風格のある車体デザイン。200CCならではの軽量化。35馬力を発生しながら、図太いトルクを絞り出す水冷2ストローク新エンジン。ベースになったのは、純粋エンデューロレーサーのKDX200Rだった。出力を無理に押えるような姑息な手法を採用せずに、唯電装系と保安部品だけを新設計した“男の匂い”をプンプンさせたロードゴーイングレーサーだった。ベース車を純粋なモトクロサッサーKK250とせずに、対米輸出で好調の耐久モトクロスレーサーのKDXにした事が、川崎重工の大きな挑戦だった。

 この強敵の登場で、HONDAは新規導入モデル、CRM250を急遽発売延期にした。そのまま発売しても、とてもカワサキの怪物KDⅩのハイスペックに適わないと判断したようだった。そのニューCRMは、スペックを出力40馬力に補強し、負けじと倒立サスを装備して市場に登場してきた。KDXがまんまレーサーの力強さを前面に打ち出してきたのに対して、CRMは流石HONDAの製品だったが、荒々しさに欠けていた。でも工業製品としての完成度は実に高かった。

 しかし、それでもカワサキの“悪太郎”KDXの空前の売れ行きは止まらなかった。工業製品としての未完成な部分や、ユーザーの手を煩わすようなマイナスの部分にまで“バイク乗りの楽しみ”や“バイクの味”と云う称賛に替えてしまっていた。オフロードバイクのユーザーは、数10年振りに、バイクと云う“趣味性”の高い乗り物の、魅力に再び気が付いたようだった。この現象は、テクニックのあるライダーに掛かれば、充分200㏄35馬力のKDXが、250㏄40馬力のCRMをサーキットで追い回す事ができる事を実証した。スペックの高いバイクが、イコール売れるバイクでは無いと云う事に、ついにユーザー達が気付く程、バイクシーンは成熟していたのだった。

 数年前から始まっていた不思議なヤマハSR250の静かな人気があった。どこかに古き良き、英国車の雰囲気を漂わせているノスタルジックなバイクではあったが、250㏄シングルのバイクが隠れたベストセラーになるとは、メーカー自身が首を傾げていた程だった。巷には、このSR専門のカスタマイズショップも現れて、びっくりするような高額なプライスで取引をされていた。同じ様な路線で、HONDAのGB250クラブマンもセールスを伸ばしていた。

「男だったら“KAWAに乗れ!“」

アメリカでは日本製のバイクの中で、男っぽいカワサキだけは特別な存在感を持っていた。HONDAやYAMAHA、SUZUKIではなく何故かKAWASAKIだったのだ。カワサキの持つ、独特のメーカーのティストは、一部の強烈な“KAWA”ファンを引き付けていた。KDX200は同じような現象を、日本のオフロード界で巻き起こしていた。

 

 マサのチームでは、マサだけがKDX200SRに乗り、他の二人はやはり新設計の弟分KDX125SRに乗っていた。125㏄クラスは参加も15台くらいの小規模で、初心者のエントリー的なクラスだった。このクラスは、運が良ければ即表彰台を狙えた。でもマサはどうしても200㏄のKDXで、250㏄フルサイズ40馬力のCRMや、同じく250㏄のYAMAHAのニューDT250WRを喰いたかった。意味は無いけど、オフロード乗りの意地みたいなものがあった。排気量こそバラバラだったがマサのチームは全員がカワサキのKDXに乗っていたので、サーキット仲間の中では“チームカワサキ市役所”と呼ばれていた。マサもその呼び方が結構気に入っていた。

 鷺沼RTが取ってくれたパドックに、カーサイドタープも張って準備が概ね出来上がると、エントリーマシンに指定されたゼッケンをカッティングシートで作った。

 赤下地に白文字が、マシン制限無しで最上級クラスのエキスパート、ブルー下地に白文字が、エキスパートクラスを狙うインターミディーエイトクラス。緑下地に白文字が激戦カテゴリーのビギナークラス、そして黄色に黒数字が125cc以下クラスだった。

 レディスクラスはピンク地に黒数字、オーバー50クラスは黑地に白数字だった。その指定されたクラス色に合わせたゼッケンを貼るのだ。カッティングシートでフロントゼッケンと、サイドゼッケンを切り抜いてゼッケンスペースに貼り付けた。第1レースは125cc以下クラスと、レディースクラスの混走だ。

 

 “ダーティサーティーズRT”からは“コグ兄ィ”と、“親父”の2人のエントラントが出場する。2人ともまだ入賞の経験は無い。ピンクゼッケンのレディスクラスとの混走の60分のレースになる。125㏄クラスは、毎回100台以上のエントラントが集まるメインレースのビギナークラスを避けて、このクラスで優勝を狙う強者がそれなりに混じっていた。ライダーのレベルは千差万別である。中には元メーカーライダーらしき顔も見える。レディースクラスも、出場レースが少ないので、全日本レディースクラスの全国転戦組のライダーもいるし、それを取材しようとするバイク雑誌の取材車も見える。

 レディースクラスは基本的には、80㏄ミニモトクロッサーを使用する。125㏄のモトクロッサーに乗るレディースは、誇りに掛けてオープンクラスであるエキスパートクラスにエントリーしていた。インターミディエイトクラスは、ビギナークラスで優勝か準優勝すると、自動的にクラス昇格を果たした。幾ら草レースとはいえ、このビギナークラスは毎回激戦だった。トップに絡むエントラント達は、全国レベルの他県サーキットを走っているプロ予備軍が多かった。ここで元プロライダーを喰って4大メーカーに売り込む、手土産にしようとしていた。

 このサーキットには、そんなプロ志望の若いライダーからマサ達のような趣味のレース参加組まで様々だった。何れにしろ、国内は空前の第2次バイクブームを迎えていた。それを受けてオフロード界も、唯のオフロードバイクだけでなくオフロードレースにまで需要が爆発していた。乗用車は便利な道具として、既に誰もが持っていた。今やオフロードバイクが動く“オモチャ”として人気を呼んだのだ。事実、このサーキットに近い本多飛行場の有名なモトクロス場もプロ志向のライダー達で一段と賑わっていた。

 

 この川越の河原に、4年前にオープンしたモトクロスコースは、本式のスタート台を持つ純粋なモトクロスコースと、ビギナーライダースクールを併設するエンデューロコースの2ヶ所のコースを待っていた。20分プラス2周のモトクロスレースでは、一般ライダーは走り足りなかったし、モトクロスは敷居が些か高かった。エンデュ-ロレースはこう云った需要に上手く応えていた。

 モトクロスの様な大ジャンプは無いが、ウォッシュボードやテーブルトップジャンプを上手く配したコースは年に12回の定期開催と相まって、関東地区の人気を集めていた。トレールバイクをベースに、保安部品を外し、レース用のゼッケンを装備すれは、今の高性能なトレールバイクは立派なエンデュランサーに変身した。日曜レーサー達は、高価なレーシングジャージィーに国際スネル規格のヘルメット、モトクロスブーツにブレストガードで武装し、まるで一流ライダーのような出で立ちだった。

 この“まるでモトクロスレース”のようなエンデューロレースが一大ブームとなっていた。国内でも、北海道日高の6ディズエンデューロのような国際的にも高名な大会も開催されていたし、モトクロスやトライアルに次ぐ、オフロードの新しいジャンルとして認識されていた。むしろ競技人口から云えば、圧倒的に新しい層を造り出していた。確かに、ここのライディングスクールに参加し、いいレースは無いかと聞いたマサに、それなら今度ウチがレースオーガナイズをするよと云う情報を聞き、富士スピードウェイのモトクロスコースを使うレースに、参加したのが始まりだった。

 殆どのライダーがレースは初めてだった。“皆で渡れば怖く無い”の世界で、1回で怖気付いて二度と来ないライダーも居れば、ショップの思惑通り、半分以上がレース会員になった。オフロードバイクに乗りたいから、ライディングスクールに参加するので壺にハマればすぐにバイクから一式をショップで買い揃えていた。コースの母体のショップは、このシステムが受け入れられて、HONDAのモトクロッサー販売実績で国内トップの地位を得ていた。

 

 

2) 第1レース 125㏄以下レース

 

 第1レースの参加ライダー達に、レース車検の集合がアナウンスされた。ショップの若い店員達が、揃いの白いツナギで車検を実施した。と云っても排気音の機械騒音測定をする訳でもなく、ルール違反のエキスパンションチャンバーに眼を光らせているだけで、ホイールの緩みや部品の脱落防止、各重要部品の増し締めを実施していた。

 ここのレースはエキスパンションチャンバーは不可だが、社外品のサイレンサーのみは交換オーケーだった。それでも何台かのレーサーは増し締めの実施指示を出された。考えてみれば、このレース車検も一種の儀式みたいなもので、車検合格後のステッカーを貼ると、ロープで囲われてしまった。もうライダー達は自分のマシンには手を触れる事はできなかった。こうやって徐々にレース気分?は盛り上がっていった。レーシングガソリンを満タンにして、エンデュランサー達はライダーのスタートを待った。

 ライダー達は主催者側から、レースフラッグの説明を受け、ゼッケンに依りどのカウントゲートを通過するかを指示された。カウンターゲートの前には、追い越し禁止のラインが引かれた。9時15分に開会式が始まった。バイク雑誌で見た事のある、売り出し中のスペシャルゲストの何人かの国際A級ライダーが紹介された。9時30分に車検場からバイクを出し、9時45分にスタートとアナウンスされた。黄色ゼッケンの125㏄クラス。ピンクのレディースクラスの、2クラス混走である。このレースは間違い無くピンクのゼッケンの方が速いだろう。

 

 D30通称“カワサキ市役所”からは、125ccに2台のKDX“コグ兄ィ”と“親父”の2人のエントリーが有り、宮さん達の“浦和レーシング”からは2人のレディース80CCのデビューレースがあった。これは彼等にとっては、自分のレースよりも寧ろ大変だろう。“コグ兄ィ”と“親父”の嫁には、それぞれのピットボードを渡した。本式のピットサインはいらない。ただ“ガンバレ!”とか“こら!マジメに走れ!”程度で充分だった。素人にはピットサインは、レースっぽい唯の応援だった。マサはピットを整理して、スタート地点に戻り、二人のエントラントに水を一口ずつ含ませた。

 

「じゃあ、ミュージックスタートしましょうか!」

主催者側のスターターが、巻いた日章旗を持ってスタートラインの前に出た。レース特有の、洒落た云い方でエンジン始動を告げた。最初はレデイスクラスのスタートの、12台。その1分後に125ccクラスの15台のスタートだ。ライダー達は細かくスロットルを煽り、自分のマシンの甲高い2ストロークエンジンの鼓動を、力として感じていた。スタートラインに並ぶライバル達に、負けじとアクセルを煽った。一瞬ピットの自分の仲間達に視線をやり、また視線を彼等を待つ狂騒の第一コーナーへとゆっくり戻した。両肘を高々と張って、ハンドルバーに体重を掛けフロントタイヤの浮き上がりに備た。

 125CCのライダー達は、90㎝近いシート高に両脚が届かず、やっと爪先でバランスを取っていた。エンジン音が、狂ったように一段と甲高くなり、エントラント達は一層ハンドルバーに覆い被さった。排気煙が、スタートエリアに満ち、カストロールオイルの甘い香りが、男達のサーキットの香水を周囲に振き散らした。エンジンが遂に、スタートの緊張と悲鳴に耐えられなくなり頂点に達っした瞬間、スタートフラッグが振り降ろされた。弦から放たれた凶暴な矢の如く、数台が第1コーナーに向かって殺到した。クラッチミートに失敗した、何台かはフロントタイヤを高く上げて、振り落とされまいとハンドルにしがみ付いていた。

 

 “浦和チーム”の女性二人は、スタートの混乱に巻き込まれずに、まずまずのスタートをみせた。レディスのスタートが土埃の中で収まると、次の125CCクラスのライダー達が、ゴグルの中で眼を釣り上げてエンジンを煽った。1分後、再びスタートフラッグの国旗が振り降ろされた。125CCクラスのスタートは、勝を狙うニューカマー数台の他は、意外と静かなスタートだった。

 マサ達“カワサキ市役所”からの2台は、“コグ兄ィ”が10台目位の団子の中、“親父”は出遅れてドン尻となった。何はともあれ、全員無事にスタートを切った。1周が約2分半ちょっとのコース上では、ピンクのゼッケンの数台が、トップ争いで早くも華麗なジャンプの空中戦を見せていた。ギャラリーはコースの外周沿いのジャンプ台や、ヘヤピンコーナーのシャッターポイントで声援を送っていた。ピンクゼッケンの数台は、ライバルの国内転戦組らしく脱帽ものの大きなジャンプを見せていた。

 1分遅れでスタートした“親父”は2周目の裏ジャンプで早くも80ccに空中でラップされてしまった。その気配と迫力に恐れをなして、後続車を気にしながら周回し始めていた。

 

“Back Off!”「後ろを見るな!」目前の敵を仕留めろ!それがレースだ。彼は気持ちが、既に負けていた。3週目にピットに突然と戻って来てしまった。

 

「ハンドルが低いんだ!……怖くて走り憎いんだ……」

ピットで私の顔を見付けると、言い訳を始めた。私は、工具の中からレンチを出すとすぐにRENTHALのアルミハンドルを軽く叩いた。バイクから降りようとする“親父”に、

「マシンを降りるな!1秒で順位が入れ替わるレース中だぞ!俺がメカを引き受けたんだ。いいか…逃げるなよ、ぶっ倒れるまで走れよ!あんたは自分で書類にサインをしたんだからな。俺達はただの親父だけど、今は正真正銘の素人だけどレーサーなんだ。これだけは、絶対に忘れるなよ!」

 

 私の大声に、彼はビクッとした。私は急いで、ハンドルバーを増し締めする振りをした。あれだけ整備をした後に、もうやる事は何も無い筈だ。ヘルパー役の奥さんが、心配そうにピットへ戻ってきた。

 

「大丈夫だ!ハンドルの位置が少し合わないだけさ。すぐに復帰できるよ!ストローで少し水を飲ませて落ち着かせてやってくれ!絶対にリタイヤだけはさせるなよ。今逃げれば一生癖になるぞ!」

彼女の耳に口を寄せて小さな声で“とにかく褒めろ!”と伝えた。ピットからの合流レーンからタイミングを計って送り出した。ライダーは逃げ場はもう無いと、肝が座ったようだった。

「落ち着いた!大丈夫だ!一丁2~3台ぶち抜いて来るわ!見てろよ!」

 

 多分コースでの最年長の“親父”は、そうマサに伝えるとリスタートを切った。ヘルパーの圭ちゃんがマサに深々と頭を下げた。マサも首で大きく頷き“なんの”と応えた。もう1人のライダー“コグ兄ィ”は、淡々と周回を重ねていた。無駄に派手な走りをせず、自分のペースをしっかりと護っていた。前半でペースを造れなかったライダーの、何人かは目立ってスピードが落ちてきた。所謂“腕あがり”の状態であった。必然的に彼の順位が上がり、6番目になっていた。

 先頭の3台は既に周回遅れを2ラップしようとしていた。この3台は道場破りのようだった。マサは裏のテーブルトップジャンプへ廻ってみた。リエちゃんが“コグ兄ィ”にサインを送っていた。意外にライダーにとってジャンプの空中は、余力がある。ジャンプを踏み切った後の空中は、着地まで余裕が有った。“コグ兄ィ”もマサに大きなジェスチャーで“順調”と送ってきた。コグ兄ィは大丈夫だ、そう思った。

 

 レディースは、全国転戦組の独壇場だった。さすがに全日本女子選手権を狙う若い選手達だ。125ccクラスの一般選手をまるで子供扱いで蹴散らしていた。彼女達はヘルメットを取れば、実はまだ幼い中高生なのだ。いずれこの中から全日本女子チャンプが生まれるのだろう。

鷺ノ宮レーシングの村井が、マサを見付けて傍に来た。

 

「マサさん、あんたメカニックとして超一流だね。俺のチーフメカやって欲しいくらいだよ。偶然ピットで見てたぜ、あんたがあのリタイヤしようとしたライダーを、見事にサルベージしたのを……」

「やだなぁ、別に俺は何にもしてないぜ。ただ水を一口含ませただけだよ」

「いやぁ、マサさんの見えないレンチの一締めで、彼はバイクを降りなくて済んだんだ。一生負け犬を、悔いなきゃいけ無かったんだから……」

「俺達みたいな年寄りはさ、情熱を維持するのが難しいんだよ。ライダーとしての将来に大きな希望が有る訳でも無いしさ。今を精一杯走れればそれでいい、ただそれだけさ。俺達が怯えでレースをリタイヤするって事は、もうバイクを降りるって事さ。それもちょっと寂しいだろ、それだけじゃあね」

「俺の年齢じゃあ、まだあんまり実感無いけどさ。でも、マサさんの云う事も、まぁ最近少しは解るかな?何となくだけどね……」

 

 第1レースは、順調に進展して行った。レディースクラスは、全国組の3人の熾烈な争いが続いていた。ここのサーキットをホームコースにしている何人かの女の子達が、果敢に彼女達3人に挑んだが、まだかなり実力に開きがあった。

 全国組は、毎週各サーキットで競っているようで、父親らしきコーチ?が付いてVTRを廻していた。一方125ccクラスにエントリーした道場破り3人組は、明らかに廻りとはレベルが違った。このコースなら間違いなくエキスパートクラスに組分けられるレベルだった。

 最初から、勝てるレース狙いのエントリーだった。弱い者達の中で、何が裸の王様になって嬉しいのか?自分以上のライバルに、ぶつかるのがレースだとマサは思っていた。“宮さん”達が云う様に、オーバー50歳クラスにエントリーを続けていれば、何時かは多分優勝できるだろう。でもそれだけは、何故か絶対に嫌だった。依怙地な自分が不思議だった。

 

 マサは、小さい頃から、スポーツで一番になった事は殆どなかった。だからこそ、このエンデューロレースでは如何してもアタマを取りたかった。50才を越え、体力の衰えをハッキリと感じるこの頃だった。何か有れば「もっと若けりゃな」とか、「俺が、お前の年齢ならば、絶対負けねぇよ」と負け惜しみを云うばかりだった。

 でも、ここのサーキットでヘアーズスクランブルを走るようになって、年若い友達ができた。30歳になる宮本と云う男だった。ここのサーキットで良く練習をしていて、何度か隣にパドックを造ってから急に仲良くなった。発売から間もないYAMAHAの、DT250WRに乗っていた。

 マサがテーブルトップジャンプを初めて跳んだ時、彼は本当に心底悔しがった。“ライバル”?そんな呼び方をするのも失礼だが、彼は本気でライバルと思ってくれているようだった。彼の為にも、マサはオーバー50クラスに、エントリー替えをする事ができなくなった。逃げたと思われたく無かったのだ。

 レースのリザルトでは、殆ど彼には勝てなかったが、サーキットで顔を合わせるのが楽しかった。やがて宮本君は、週末のサーキットにフィアンセを連れてくるようなった。マサも友人を誘って、素人レーシングチームを造った。“ダーティー・サーティーズ”俺達も何時のまにか、30歳代になっちまったなぁ!そんな気持ちを込めて20歳代の後半から、20年以上も、ずっと使っていた名前だった。

 

 気持ちは50歳代になった今も、同じだった。ダーティサーティズは、勿論元々レースをやるような仲間では無かった。年に数回、めかし込んで子供を親に預け、夫婦だけで六本木辺りへ繰り出す、川崎出身のお馬鹿グループだった。

 姑と同居のリーダー格のメンバーの細君などは、年にたった1回だけの“おしんデレラデー”と呼んで楽しみにしていた。マサがオフロードレースチームを造ろうと思った時、チームの名前はこれしかないと思い“ダーティ・サーティーズ・レーシング・チーム”と名付けた。そして、グラフィックデザイナーの“コグ兄ィ”を誘い、地元の友人だった“親父”と3人で、素人レーシングチームを作った。言いだしっぺのマサが、何となくチーム監督兼主力?選手になった。

 川越のオフロードサーキットへ、皆で毎週の様に走りに行った。最初は満足に跳べなかった台形のテーブルトップジャンプも、やがて跳び越して下り斜面に合わせて前輪を空中で下げて、ショック無く綺麗に加速できるようになった。勿論、それが出来るには、半年は十分に時間が掛かった。

 パワーの問題もあるが、125cc組にはまだ大分荷が重かった。ヘアピンカーブでは、インを一気に突いて、ブレーキターンで後続車を押さえながら加速する走法も体が反応するようになった。後輪のドリフトは、既にコントロールできるようになっていた。つまり逆ハンができるようになっていたのだ。同じヘアピンカーブでも一旦アウトに出て、大外を加速しながら抜け、バンクの頂点でスピードを落とさずクィックに直線に戻すバンク走法も使い分けられるようになった。つまりアマチュアライダーにも、その程度のテクニックが身に付くほどアマチュアライダー達の技術レベルは上がっていた。

 

 マサが少年の頃と違い、今の高性能バイクはアクセルを開けるだけで面白い程フロントタイヤを持ち上げた。昔はジャンプの時は、ニーグリップを締めて膝の抜重で跳んだ物だった。今の高性能バイクの走法は、両踵でバイクのコントロールをし、抜重よりもアクセルワークとサスペンションの性能だけで充分にジャンプを跳べた。むしろ怖いのは、跳び過ぎのリバウンドの方だった。

 素人でも、充分空中戦が可能だった。器用なライダーは、空中で左手でギャラリーを指差し、ワンハンドアクションジャンプを決める者まで現れた。色々な事が比較的容易に出来る様になった反面、ライダー達に骨折者が相次いだ。体はバイクの早い進化スピードに、付いていけなかったようだ。毎週サーキットでは骨折者が相次ぎ、ボランティアで比較的近い大学病院へ運んだ。骨折する方も覚悟の怪我なので、翌週には松葉杖を突いてサーキットへ帰ってきた。脚にボルトの入っている者や、松葉杖は当たり前の過激な世界だった。

 ただ、我々はそうはいかなかった。バイクレースで怪我をして、会社を休む訳にはいかなかった。多少の怪我ならば、何もなかったような顔をして、会社を終えると足を引き摺りながら帰宅した事も、何回もあった。それが、仕事を持つ社会人としてのルールだった。怪我をしても学校を休める、高校生のような思い切りのいいライディングは、もうマサ達にはできなかった。マサ達と同じように、ここに集まるライダー達には家族の生活が掛かっていたのだ。サイドバイサイドで競った時、どうしてもアクセル開度に躊躇が生じた。でもそれは、社会人としての当然の節度だろうと思った。

 

 やがて1時間のレースは終了した。レディースはプロ志望3人組が順当に入賞した。“浦和RT”の二人は、無事デビューレースを終えた。それなりに手応えが有ったようだった。これでまた、スーパーバイカーレディズの誕生になったようだ。

 マサ達の“ダーティ30RT”は、“コグ兄ィ”が5位に食い込み、入賞まであと一息だった。“親父”はマシントラブルでのリタイヤが1台出たので、完走で最下位は免れた。

 皆レースの興奮が抜けない内に、午後のレースの車検集合がアナウンスされた。午後一番はマサのエントリーしているメインレースの、ビギナークラスだった。今日はエントリー102台と、100台を超えるエントラントが集まった。車検の実施中、マシンの仕上がりとライダーのレーシングジャージィの懲り具合?で技量を量った。

 要点を満たしたマシンを持つ、要注意の遠征組は5人程だった。この5人の内3人は、ごうやら同じグループだった。あとの2人も知り合いの様だった。ここのサーキットの常連達の猛者達は、宮さん達のように上位カテゴリーに昇進してしまい、今や敵は宮本君と、八王子RTの2人を含め10台程だった。順当にいけば、この15台ほどの中からマサを含めて優勝者が出るだろう。

 

『こりゃあ今日は、相手に恵まれているかもな、意外と表彰台を狙うチャンスなのかも知れない。反対にチャンスと思って力が入り過ぎ、却って腕上がりに成らないようにしないとな。最終周回で、最後のコーナーで頭を取れる力を温存できるかどうか    だろう?最後までトップグループに喰い付いて行けるかだな』

 

 マサはそう思った。車検合格後のストックエリアにマシンを入れ、皆の待つパドックに戻った。マサは愛車の点火プラグを、先週から国産のNGK製ではなく、アメリカ製のスプリットファイアー製に替えていた。

 今日はスピードレースの展開になると予想し、1番手高い熱価番号を選択していた。エアクリーナーは、Twin Air製に交換し、2ストオイルを適量塗り込んだ。RENTHALのアルミハンドルバーも幅の広いブリッジ付のマタセビッチモデルに替えてあった。キャブレターのメインジェットには、アメリカ製の“爆弾キット”を驕り、排気系は抜けのいいドリームトキのサイレンサー武装していた。

 2時間のレース時間だ。計算上、給油はいらない筈だが、万一に備えて4リッター程の予備レーシングガスの準備を済ませた。ゴグルにはティアオフの使い捨てレンズを5枚程セットしてある。ゴグルのバンドには、鳶のインディアンフェザーをヘルメットから引いて走る積りだった。

 今日は、マサの大好きなネィティブアメリカンの戦士にになるつもりだった。いずれにしても、今日は大勝負だと自覚していた。早く、宮さん達が待つ“インターミディエイト”クラスに昇進を果たしたかった。

 

 浦和レーシングと、鷺ノ宮レーシングそれにマサ達ダーティサーティズと、宮本君達は、昼飯の支度に掛かっていた。早々とマサの鉄板とツーバーナーが大活躍していた。豚汁が鍋の中ではいかにも旨そうな香りを放っていた。この旨そうな匂いに釣られて、何人ものエントラント達が偵察にきた。

 

「すいません。今日のお昼は、余まりそう?」

「御免!俺達の分が先なんだ。今日は多めに作るから、多分皆にいくらかは廻ると思うよ。リック・ジョンソン・ホールショットソース焼きそば1杯500円也、J・ミッシェル・バイル豚汁1杯300円くらいかな。そこのピットボードに、名前と欲しい数を書いといてな。売り切れ御免だよ。勿論、税金   なんか要らないよ。それとさ、俺等は商売じゃないんで当てにしないでね。まぁ、優勝でもしちゃたら1杯10円特別セールがあるかも知れないけどね」 

   

 宮さん兄弟が、実にうまく並んだ客達?を捌いていた。前回余った物を、最後に全部買占めした家族がまた来て、今日も余ったら全部欲しいって買いにきた。子供達に豚汁が大好評だったみたい。その内きっとホットドッグ屋のバンが、毎週来るようになるかも知れないなって皆で大笑いした。モトクロス好きの香具師なんて、可愛いじゃないか。

 

 午前のレースの武勇伝と笑い話で、賑やかな昼飯が始まると、コースを散水車が走り始めた。散水車をボランティアで運転しているのは、中年の星“松原”建材の社長だ。このコースを開設する時からのメンバーで、素晴らしいライダーだった。彼の息子も、エキスパートクラスで、村井君と肩を並べる程の華麗な走りをするライダーだ。

 胸に赤地に白い“M”のゼッケンを付けたコースマーシャルが、コースに出て路面のチェックを始めた。数10台のオフロードバイクが60分も走ると、埋めた瓦礫が掘り返されて路面に顔を出す。それをマーシャルがチェックして取り除いていた。

 いよいよメインレースの“ビギナークラス”の準備が始まったんだ。レースのジャンルは確かに初心者対象の“ビギナークラス”だったが、毎回100台を超えるエントラントを集めるこのクラスは、自己申告と云う事もあって実質上メインレースになっていた。

 これじゃあ、もうビギナークラスとは言えない状態だった。実力がビギナーでは無く、ただレースの経験があまり無いだけだった。エントラントの出で立ちを見るだけでも、十分に洗い込んだレーシングジャージィといい、履き熟されたモトクロスブーツといい、普段は125㏄以上のモトクロッサーに乗っている事を覗わせるエントラントも随分いた。

 

 唯のモトクロッサー乗りなら、何も必要以上に怖れる事はない。ここのエンデュランサー乗りのレベルだって、けっして見劣りする事はなかった。マシンの性能を極限まで引き出しているライダーなんて、そういる訳じゃあ無い。クイックコーナーの立ち上がりで不用意にアクセルを開けると、フロントが浮き上がってしまう。オーバースペックの市販モトクロッサーなんて、昨日今日から急にモトクロッサーに乗ったライダーでは乗り熟せないだろう。それにマシン差は、コースの慣れで吸収できそうだと思った。

 何よりも、このコースは80㏄以上のモトクロッサーは、出場できないから寧ろ有利にはならないだろう。ストレートも、200m位が最長なので、本当のマシン差は、ジャンプになるだろう。ここのジャンプは大小合わせて9か所だ。勝負は裏正面の2段テーブルトップジャンプだが、フルサイズのモトクロッサーでも1段目だけの助走では、このジャンプを攻略出来ない。コツは必要以上に、大きく跳び過ぎない事だ。2段目の台形ジャンプは、跳びきって尚かつフロントを下げながら、下り斜面に合わせてスムースに加速しながら降りなければタイムロスが出る。ここのコース特有の、トリッキーな設計だった。

 

 モトクロッサーのようにエンジンパワーだけで跳ぶと、ジャンプを跳びきってしまい、大きなリバウンドを喰らって立ち上がりでむしろタイムロスが出る。いかにロングストロークを誇るモトクロッサーのサスペンションと云えども、底突き必至だった。

 このレースは、基本的にはモトクロッサー不可だった。つまり、普段モトクロッサーに乗っていて、たまにレースのレギュレーションに合わせて、マシンをトレール車改造のエンデュランサーでエントリーしてくるなら、充分勝負になる。

 人間って奴はさ、普段乗っているマシンより性能が劣るマシンに乗れば、物凄くもどかしく感じる筈だ。性能差を身体が理解するまでに、それなりの時間が必要だった。ここでモトクロッサー可のレースは、エキスパートクラスだけだった。インチキ申請のカップ狙いのライダー以外は、たいして怖く無いだろう。

 

 午後1時に、メインレースの“ビギナークラス”レースの集合が掛かった。レース時間は120分、ガスは満タンなのでガス欠にはなら無いだろうが念のため、マサはピットに予備のレーシングガスと工具箱を運んだ。

 レーシングスタンドも、午前中と同じように運んでおいた。パンクは、スペアホイールの無いエントラントにとって、120分のレースでは致命傷だった。もし不運にも、釘でも貰ってパンクをすればレース復帰は諦めていた。ピットボードは“コグ兄ィ”に渡し、サインは5つあるレース周回チェックの追い越し禁止区間の横にしてあった。

 №15のマサのゲートは、一番右の“ゲートA”だった。マサはレースが始まると、直前のバイクのテールしか見ていなかった。マサには、ピットからのサインを受ける程の作戦など無かった。とにかく前を行くバイクを1台づつ喰っていくだけだった。

 スタート位置は、エントリー申し込み順なので第1列目が確保出来ていた。今日のエントリーは102台なので、スタートは3列目まで設定されるだろう。最前列以降のスタート順になると、すでに優勝は無理だった。経験上、トップグループに喰いついて行かなければ、表彰台は望めなかった。

 

 今日は、トップグループに絶対に喰い付いて行く積りだった。マサのゼッケンは“15番”、ライバルの“宮本君”は“21番”を持っていた。スタート順の優劣は殆ど無かった。スタートラインに並んでからも、お互いの位置を確認しあっていた。レース前は、お互いに眼を合わせなかった。仲のいい2人も、スタートを切れば“ライバル”以外の何物でも無かった。

 宮本君も今日は決着を付ける気らしかった。ピットも隣にセットしたし、今日はどうやら負けられない長い一日になりそうだった。スタートは“度胸”だった。今日は俺がここで一番速いと信じて、第一コーナーの2時間先に有る、チェッカーフラッグに飛び込むんだ!お互い怪我をしないように、正々堂々正面から闘おう。年若き、YAMAHA乗りの友よ。

 

4)Back Off (俺のリアタイヤを拝め!)

 

 スタータースタッフが、102台の殺気立ったエントラント達の前に、スタートフラッグの日章旗を持って、進み出た。日の丸って結構好い旗じゃんか!改めてそう思った。

「じゃあ皆さん、午後のレースの準備はいいですね?では、100台を超える活きのいいロックンロールをたっぷりと聞かせてくださいね。 それでは、Let’s ロックンロール!    andファンキー…マーッドダーンス!」

 

 100台を超すエントラント達は、2列では足らずに横3列に並び、スタートラインに付いた。闘志を込めてキック1発、エンジンに火を入れた。スタートラインは、100台を超える獰猛なレゴ・ラリータ達の咆哮に震えた。スターターはゆっくりとスタートフラッグを解き、コース横に動いた。スターターはエントラント達に視線を這わせ、スタートフラッグを拡げて示し、大きく息を吸い高く頭上に差し上げた。

 貧弱なアルバイトのレースクィーンが恥ずかしそうにしながら“60sec”と大きく描かれたボードをエントラント達全員に示した。“スタートまであと60秒”の意だった。30秒後レースクィーンは、今度はボードを横に倒して見せた。“あと30秒後!スタート”だった。アドレナリンが102人のエントラント達の体内を駆け巡り、エクゾーストノートが緊張に耐えられなくなった瞬間、フラッグは振り降ろされた。狂乱のスタートは今、たたき切って落とされた。

 

 この日マサは、ここスタート一発を狙っていた。スタートで気遅れすると、その遅れを取り戻すのに大変な労力と危険を冒さねばならなかった。どうしてもスタート直後の大混乱を制しなければならない。マサの左横の方から、3台が纏まって、フラッグよりも一息速くスルスルっとスタートを切った。“クッソーやりやがったな!”勿論フライングだった。素人レースでは、フライングでスタートのやり直しはまずなかった。やり直しをする、そんな時間的余裕も、まず無かった。あーあしょうがねぇなあで、終わりだった。だいたい競技委員長が誰かも、皆知らなかった。それを知って居る確信犯だった。

 

 物凄い砂埃の中に、マサは一塊のトップグループに混じって第1コーナーに飛び込んで行った。第1ヘヤピンを起ち上がった時、マサは6位とまずまずの順位をキープしていた。ホールショットを奪ったのは、確信犯フライングスタートの道場破り3人組だった。№11~13の連番の3台が意識的に同時に、フライングでもしなければ、繋がってホールショットを奪える訳が無かった。多分この3台のグループは、普段からフライングの練習までやっているんだろう!この3人組の後ろに“八王子RT”のHONDACRM250と、新発売のカワサキのフルサイズKDX250SR、そして次がマサのライムグリーンKDX200だった。そのマサの3台ほど後ろには、あの宮本君が喰らいついて来た。スタートのあまり得意でない彼が、物凄い闘志をみせてマサに喰らいついて来た。その意気込は、確かなプレッシャーとしてマサにも届いていた。甲高いヤマハDTのエンジン音が、どこまでもマサを追ってきた。

 

 道場破り組の3台は、悔しいが中々の腕だった。ヘヤピンでは、インベタを抑えてテールtoノーズで正確なブレーキターンで抜けて行った。彼等の直線のイニシャルスピードは怖れる程では無かった。でもマサに取って、何処からでも抜けると云うレベルでも無かった。無駄な動きは殆ど無く、つまり彼等は宮さん達のレベルと何ら変わらなかった。5周目に入ると、そろそろ周回遅れの“動くシケイン”が現れ始めた。宮本君との間に2台程赤いCRMが割り込んで来た。このCRMは、マサのKDXを無理に抜こうとしていた。この2台は、先に先に行かしても全く怖く無い。30分も持たずに消えてしまうだろう。きっと腕上がりで、どんどんと墜ちて行くだろう。でも“簡単には抜かせるか!”そう云う強い意志表示を左手の中指を上げてアピールしておいた。無理に先に行かせるまでもなかった。

 

 幸いな事に先行の3台は、どんどんスピードを上げて後続を引き離すだけの実力差は無いようだった。ここで先行のグループにスピードアップをされても、マサ自身も離されないスピードで追う事は出来なかった。無理に追えば、マサ自身が腕上がりで脱落してしまうだろう。今まで何回も何回も悔しい思いをした負けパターンだった。120分のレースタイムを、満足なレーススピードで走り切る事は、マサ達のようなサンデーレーサーには想像以上に難しかった。体力、精神力共に力不足だった。

 

 10分程度のレースタイムだったら、先行の3台に勝負を挑む事も出来るし、1回位なら抜く自信もあった。でも、多分1回で終わりだろう。実力以上のレースを挑めば、間違い無く腕上がりになるだろう。それを知らないマサ達素人ライダーは、何回悔しい思いをした事だろうか?全てはオーバーペースだった。普段の練習で、ジャンプも満足に跳べるし、ブレーキターンでヘアピンを抜けて行く事もできる。問題は、そのスピードとテクニックを持続できるかどうかだった。1年以上のレース経験で、敵は相手のライダーでは無いと云う事がやっと理解できた。本当の敵は自分自身の体力であり、本当の味方は不屈の精神力だった。“腕上がり”レース経験の無い人間には、幾ら説明しても解らないだろうが、一定のペースを守って一定時間を走り切ると云う事は、普通のライダーには不可能だった。マサも毎週の様にコースで練習をしているが、長時間を連続してレーススピードで走ると云う練習はして来なかった。それが必要だと云う事は今なら解るが、新人ライダーはそこまでのストイックな練習を取り入れる事はなかった。プロになる訳では無い一般ライダーにとっては、バイクは楽しみで有り、けっして修行ではなかった。

 

 “2時間耐久エンデューロレース”これが今日の、このレースの正式な名称だった。器用にトレールバイクを扱えるライダーでも、このレースの本当の過酷な部分を理解していなかった。調子よく走っていたライダーに、突然と“腕上がり”は襲い掛かって来る。違う云い方をすれば、急激な“疲れ”の症状だった。今まで簡単に出来ていた事が、びっくりする程何もできなくなってしまうのだ。アクセルが同じ物とは思えない程重く感じ、ステップに立って走る事が辛くなってくる。まるでシートに根が生えたように、急にシートに立つ事が出来なくなる。エンデューロライダーで最初から最後まで、同じ一定のペースで周回できるライダーは居ない筈だ。全日本の、国際A級モトクロスレースだって、僅か15分と2周しかレース時間はない。だからこそ、この耐久モトクロスが“鉄人レース”と云われているのは、伊達じゃあなかった。速く走る事だけが求められるのでは無く、ある程度以上のスピードで走り続ける事を求められる過酷な、とんでもないレースだった。言い換えればバイクのマラソンレースだった。派手にジャンプを跳んだり、コーナーでカウンターステアを切るなんて、それが本当の耐久モトクロスではなかった。辛くて、辛くて逃げ出したくなる。それが本当のエンデューロレースだった。

 

 6周目の周回チェックレーンを通過する時、DT30の“コグ兄ィ”からのボードが出た。“№15順調6位”大丈夫だ、ちゃんと読んでるぞ。落ち着け、落ち着けマサ。2台のCRMはマサのフェイクが効果を上げたようで、後ろからうるさく追い回されなくなった。先行の3台の他に、KDX250とCRM250が前に居たが、あれは確かこのサーキットの八王子RTのチームメンバーだった。新発売のKDX250はまだ珍しかったから憶えている。この2台は早めに抜いておいた方が無難だった。ここをホームコースにしているライダーは、コースの癖を良く理解している。あとは、エントラント達に変な自信を持たせない事だ。レース中に何かのきっかけで自信を持つと、若者は大化けする事が有る。出る杭は早めに打った方がいいには、違いない。恐らく30分は、このままで大きな変化は無いだろう。このペースを確実に護って、前から先行車が墜ちて来るのを、じっと待つ積りだった。追い上げてくる可能性のあるのは、さっきの2台のCRMだろう。マサはスタートを切ってから、1台にも抜かれていない事が、それを物語っていた。しかし、このスピードで周回するのは、マサに取ってもけっして楽では無かった。

 

 そろそろ周回遅れや、転倒車が、チラホラと出始めた。周回遅れは本当に“動くシケイン”そのものだった。これをパスするには、後ろに付くとオッカナびっくり走っているビギナーには、「右から抜くぞ!」とか「左から行くぞ、進路を変えるな!」と露骨に声を掛けてから一瞬で抜いた。行儀は悪いが、多分これが一番安全な周回遅れ対策だった。急に抜かれてビックリして転倒され、それに巻き込まれるのはお互いの為に成らなかった。マサ自身がビギナーの頃、よく「おらぁ、じゃまだ!どけ!」とやられたものだった。危険な周回遅れは、ビクビク走っているのでそれと一目で解った。これも安全にレースを走る為の、一つのテクニックとマナーだった。進路を譲ってくれたライダーには、軽く左手で合図を送った。だって右手は、意地でもアクセルを緩める訳にはいかないからさ。左手を軽く上げる意は「ありがとな、あんたもがんばれよ」だ。

 

 30分ちょっとが経過した頃、ついに前を行く八王子のKDX250と、CRMの2台に変化が現れた。動きに精彩を欠き、トップを行く3台にじょじょに差を付けられ始めた。チャンスだ、腕上がりが始まったんだ!マサもヘヤピンカーブでは、八王子のKDXに並び掛け、プレッシャーを掛けはじめた。KDXはマサがぴったりと追随している事を充分承知していた。このKDXと、その前を行くCRMは、マサのプレッシャーを嫌がっていた。無理に相手を抜く必要は無い。相手に戦う余力が無くなった時、一気に勝負を掛ける。コーナー毎に並び掛けては、何時でもお前なんか抜けるんだぞと、フロントタイヤを相手に見せつける。そうやって更にプレッシャーを掛け続けた。裏正面のテーブルトップジャンプを跳んだ後のストレートで、ついにKDX250は右に寄って左手でマサに“先に行け”とギブアップサインを出した。マサの掛け続けたプレッシャーに、ついに相手は負けたのだ!これでマサは5位に上がった事になる。でも、ここで安心しては後ろから、あの宮本君が迫って来ている。KDXの横に並び掛けると軽く左手で合図を送り、一瞬で抜き去った。先行車を追い回してパスした時は、相手が観念して諦めるように、今度は圧倒的なスピードの差が有る事を見せつけなければならない。これが、実は結構大変だった。マサ自身、既に一杯いっぱいで走っているのだった。でも、これをやらないと相手は必ず、また息を吹き返して来る。その時、若し抜き返されてしまうと今度は自分がまったく抵抗できなくなってしまう。ここは一番、無理をしてでもやるしか無かった。だってこれがレースってもんなんだから。誓約書にハンコを突いたのは誰なんだ?相手も、自分を倒しに向ってくるんだ。素人レースでも、レースはレースだった。お友達のツーリングごっこでは決して無かった。相手は間違いなく“敵”以外の何物でも無い。素人のレースでも、厳しい部分はまったく本物のレースと同じだった。

 

 八王子のKDXを屠ったマサは、今度はCRMに向っていった。1台、1台と目の前の先行車を潰すんだ。CRMも、仲間のKDXが既にマサに喰われた事は充分承知している。次は自分が屠られる番だと云う事も。でも既にCRMもそれに抗う力は、もうほとんど残していなかった。最後の余力まで使い果たしていたのだった。追われる者の弱さなんだろう。全ては彼等自身のオーバーペースだった。スタートしてからここまでが、結局彼等2台のスピードの限界だったと云う事だった。前を行くCRMもついに力尽きてマサに前を譲った。これでついに4位まで上がった。表彰台まで、いよいよあと1台だ。正念場の、先頭の3台との勝負だった。

 

 マサは残った力を、先頭を行くフライング3台に向けた。最低でも、この中の1台は喰わなければ表彰台に立つ事は適わない。少しづつ彼等の背中のゼッケンが大きくなってきた。11番、12番、13番、若い有利な番号を手にする為に、彼等のレースに対する知識と努力が理解できた。やはり連番ゼッケンと云う事は、彼等は一つのチームだと云う事が解った。マサが温存してある余力は、まだ幾らか有る筈だ。だが八王子の2台とのバトルで、実は喉はカラカラになっていた。水が飲みたい!水が欲しい!でも背中に取付けたEabianのペットボトルの水は、サイホン現象で逆流してブレストガードを濡らしただけになっていた。紛い物のウォータータンクは、やっぱり駄目だった。金は少々掛かっても、本物のキャメルバッグを買っとけば良かった。今なら喉の渇きを潤す為に、例え1万円であろうとも、水一口に金を払うだろう。マサは自分の貧乏性を呪った。

 

 彼等の後ろに付くと、彼等のチームワークが手に取るように理解できた。どうやら先頭の№11が、このチームのリーダーのようだった。他の2台はリーダーの選択したコースを忠実にトレースしていた。コーナーは殆どインベタを、ブレーキターンで抜けて行く。真後ろで見ていると、一瞬タイヤが止まりブロックパターンが見える。ブレーキターンの頂点で、カウンターを当てている時間がマサより十分に減速している。これは使えるかも知れない。テーブルトップジャンプも、充分にトレーニングされたテクニックを持っていた。まるで、3台でフォーメーション走行をしている様だった。夫々のジャンプやコーナーに、付け入れそうな場所はちょっと見当たらなかった。ペース配分も、けっしてぶっ千切ろうとせずに5分の力を残して走っているようだった。まるでコーチが、新人2人にレースの勝ち方のレクチャーをしている様だった。こりゃあ実に強敵だ。特に先頭を走る№11は間違いなく強い。N・A程度のレーシングライセンスを持っていそうだった。単独だったら、いったいどんな走りをするのだろうか?まだ見せていない違う面が、どこかに有りそうだった。とにかく、チーム最後尾の№13に最接近してみた。ピットが気付いて、仲間に知らせたようだった。先頭のリーダーは、マサをちらっと振り返って見た。瞬間的に値踏みをしたようだった。このスピードなら心配いらないと判断したようだった。舐めるなよ!カワサキ乗りの実力をみせてやるからな!俺のリヤタイヤの、ブロックパターンを拝ませてやる!

 

 レースも半端を過ぎ、大きな流れが読めそうだった。おさらいをすると、現在道場荒らしのCRM3台のチームが先頭だ。4台目は、やっと先頭グループの蓋をしていた4~5位の2台の腕上がりに乗じて、2台を潰して4位を奪ったKDXのマサが、ステップアップしていた。5位、6位は一旦マサに前を開けた、八王子レーシングのCRMとKDXだった。7位にDT250の宮本君が頑張っていた。さっきまでマサと争っていた2台は、ズルズルと緊張が途切れ腕上がりに泣いていた。宮本君に躱されるのも時間の問題だろう。先頭のチームは、マサの接近にピットが警戒をしていた。スピードアップのチームオーダーが出るかも知れなかった。7位の宮本君から後ろは、少し距離が空いていた。マサの決して無理をしないクレバーな走りにピットは沸いていた。どうやら先頭の道場荒らし3台が、表彰台を独占するか?マサがフランチャイズの意地で、3人の一角を崩すかに絞られていた。マサは、自分の温存している力に満足していた。あのチームの動きに有る程度対抗する気力も残っていた。

 

 「コグ兄ィ!マサさんいけるぞ!あのチーム3台の3番目の№13は、コーナーの立ち上がりで毎周モタ付いている。あいつはきっと頭の3台から落ちてくるぞ!」

鷺ノ宮RTの村井が、自分の事のように興奮して“コグ兄ィ”を捉まえて言った。

「2位の№12のCRMも同じだ。自分本来のペースじゃあなく、先頭の№11が考えたペースで走ったツケがそろそろ出てくるぞ。でも、やっぱり先頭の№11は別格だな。ありゃあレースの経験大分あるな?あいつを落とすのには、まだちょいとマサさんにはしんどいだろう。」

 

 宮路兄弟も、ピットに集まって来た。

「マサさんの今日の走りは、腰が据わってる。いつもの挑発に乗るオーバーペースの悪い癖は、今日は出てないみたい。まだ力を温存しているよ。これはヒョットすると、ヒョットするぜ!」

「そうだよ、壺にハマるとマサさん結構やるぞ。あっ宮本君のDTが八王子の1台を今喰ったぞ!これで川崎市役所RTが4位、宮本君が6位か!面白くなってきたね。マサさんと宮本君の2台同時に表彰台も有るぞ!」

 

 コースでは宮本君のDTが健闘を続けていた。彼の強みは、大きな崩れが無い事だった。見た目の派手さこそ無いものの、ジワジワと差を詰めてくる嫌なタイプだった。DTのモーターみたいなエンジン特性に、彼のライディングスタイルが合っているのかも知れなかった。宮本君自身はあまり気付いていなかったが、30歳そこそこと云う若かさこそがこの素人レースの大きな最終兵器になっていた。最後に鍵を握るのは、この“若さ”なのかも知れなかった。

 

 どうやら道場荒らし組の、№11のCRM250対、身内のマサのKDX200と、宮本君のDT250の3人の勝負だと既に宮さん達は読んでいるようだった。マサは先頭の3台には、まだチョッカイは出さないでいた。勝負は多分最後の数周になるだろう。先行グループ3台を、もう一度じっくりと観察してみた。

 

 №11、今年45才になる辻本は、神奈川の座間から来たチームのリーダーだった。40才で№12のライダー毅は彼の実弟だった。辻本のモトクロスの経験は15歳からの5年間ほど、YAMAHAのYZ125㏄モトクロッサーに乗っていた。勿論20数年ほどの長いブランクが有る。15歳の夏、近所にあった米軍座間基地の中で、米兵のモトクロスを見る機会があって、それから見事に嵌まってしまった一人だった。結局、芽が出なかった大勢のモトクロスライダーの一人だった。それが、昨今のバイクレース熱の再燃で眠っていた悪い?虫が目を覚ましてしまった。普通のエンデューロライダーに比べれば、彼は基礎になる知識がしっかりしていた。モトクロッサーの経験も十分にあったが、彼自身怪我でモトクロスを離れてからは、もうずいぶんになる。

 

 ある時弟の毅が床屋からバイク雑誌を持ってきた。その雑誌で、相模川の河原にモトクロスサーキットがまだ有るのを知り、弟と中学生になる息子を連れて見に行った。辻本が現役の頃に比べるとマシンに格段の差があった。正に浦島太郎状態であった。でも辻本の胸の奥深い処で何かが呼びかけてきた。それは多分若き日に、果たす事のできなかった彼自身の夢だったんだろう。嫁の反対を一笑して、近所のバイク屋で中古のHONDAのCRM250を買ってきてしまった。弟や子供達や、妹の亭主までを巻き込み、相模川の河原で毎週走った。息子も、親父に教えてもらい何とか乗れるようになった。その秋、息子の忠男の誕生日プレゼントは、中古のCRMとヘルメットとモトクロスブーツだった。保安部品を外したCRMで、親父と一緒にコースを走る様になった。

 やがて、大柄な忠雄は中学生レースで頭角を現し始めた。地元のレースになると、何回か表彰台にも立った。クラスメートで親父と一緒にバイクの話しが出来るのは、忠男だけだった。このチームは家族総出で、レースの応援に動いていた。座間の有名なショップから、ここ川越のエンデューロレースを紹介され、道場破りの積りで乗り込んできた、典型的な新しいレースファンファミリーだった。“座間ロケット”それが、このチームの名前だった。

 

 №12は、№11辻本の実弟だった。20数年前、相模川の河原に兄の応援に行った事や、兄の怪我での引退をマイナスの思い出として燻らせていた。今、兄と一緒にコースを走るのは、あの時の見果てぬ兄弟の夢なんだろう。この年齢になって、酒とゴルフと競馬以外何もしようとしない同年齢の同級生達に比べれば、自分は何て幸福なんだろうと思った。兄と甥と一緒に3人で、表彰台に上る事が彼等の大きな夢だった。『兄ちゃん、格好いいぜ!忠男と3人で、優勝カップ3つ持って帰ろうぜ!』そう呟いていた。

 座間チームの最後尾で、今まさにマサのKDXに尻を突かれ始めた№13は、№11辻本の長男だった。15歳で忠男と云う彼の名前からして、過ってのYAMAHAの名ライダー、鈴木忠男から名付けた物だろう。父親が如何にバイクに対する熱い思いを持ち続けていたのかが解る。きっと“座間ロケット”の未来の宝石なんだろう。だが、今№13は、マサに追い回され始めてから、小さなミスが目立ち始めた。まだレース時間は“たっぷり”45分も残っていた。追う側のマサは、“たっぷり”そう思った。スプリントレースなら、2ヒートが可能なくらいだった。

 だが№13の忠男にとって、一刻も早く時間が過ぎて欲しかった。今なら無敵“座間ロケット”の夢の1、2、3フィニッシュなのに……。それに、そうなったらチームオーダーで、自分に初優勝をさせてくれるかも知れなかった。だから自分達の“座間ロケット”チームに急接近してくる、ライムグリーンの脅威、カワサキKDX200が恨めしかった。僅か200㏄のマシンに乗り、王者HONDAのフルサイズマシンCRM250を追い回しているライダーが、大嫌いだった。大体わざと200㏄に満たない、非力な小さな排気量のマシンを選び、250㏄フルサイズのマシンに堂々と挑んでくるライダーに嫌悪感があった。どうして有利なマシンを選ばないんだろうか?マシンの性能差で、勝利を逃す事だってあるだろうに。KDXのライダーの考えが、まったく解らなかった。レースってものは、1センチでも前にゴールした者が勝つんだ。不利を承知で、何で小排気量車を選ぶんだろう?どうしても解らなかった。

 

 YAMAHAのDT250に乗る宮本君は、今日のレースに、しっかりとした手応えを感じていた。彼は優勝はおろか表彰台すら、まだ未経験だった。このサーキットでエンデューロレースが開催されるようになってから、殆どの週末をここの河原で過ごしていた。ここのコースを走る為に、新発売されたYAMAHAのDT250WRを買った。バイクはYAMAHAの、ロードタイプの250㏄車を持っていた。全く違うタイプのオフロード車にも、興味が有りYAMAHAからデュアルパーパス車が新発売されると、ショップで一目見て購入した。それがDT250WRだった。自宅のある尾久から、比較的近い川越にあるこのサーキットに来るようになった。

 毎週末の様に練習に通う内に、横浜から来るカワサキKDXに乗るマサと知り合いになった。パドックを隣に造るようになると、急に親しくなった。やがてマサは、レースチームを造ると宮本君も、フィアンセを連れて来るようになった。マサとは、コースを走り始めたのが同時期だったので、今更人に聞けないようなバイクの基本的な事や、技術的な事も情報を交換し合った。年齢も仕事もまったく違うが、それだからこそ、余計にいいバイク仲間になった。

 ここのショップ主催のレースに2人が出場するようになると、今度はいいライバルになった。ライディングスタイルも、正反対だった。宮本君は自分をどこまでも失わないタイプだった。一方のマサは、すぐ熱くなるタイプだった。マサにとって、バイクは自分の隠れた一面を発見する、不思議な趣味?だった。自分の奥底に潜む、隠れた凶暴な面に触れると、自分自身を再発見した。丁度妻のユキと別れてから、バイクに再び乗り始めた。

 丁度マサが始めてバイクに乗った時、1969年だった。YAMAHAが歴史的なトレール車“DT1”を世界に向けてリリースした時だった。パールホワイトの“白タンク”に、ダブルクレードルフレーム。脚の長いセリアー二タイプのフロントフォーク。バイクと云う機械に、一目惚れをしてしまった。DTを多摩川の河原に持ち込み、誰かが造った小さなコースでモトクロスの真似事を始めた。それでも、やっと小さなジャンプが跳べる程度だった。1970年大阪で開催された万博にも、同級生とバイクで行った。500kmを超える、生まれて初めてのロングツーリングだった。

 やがて同年齢の少年達がそうだったように、興味はクルマに移っていった。スカGや、ベレットGTに憧れた。バイクの事は、雑誌でたまに“DT1”の写真を見ると、郷愁を憶えた。それがマサとバイクとの思いでだった。マサが50歳を迎える少し前、丁度車の車検が切れる時に意中の車が無かった。通りかかった近所のバイク屋のショーウインドに、中古のDT50があった。車検より安かったので、気に入った車が見つかるまでの積りでDTを買った。悪い病気の再発だった。

 今度は、バイク屋の親父が出物のホンダのMTX200を持ってきた。バイク屋の術中に見事に嵌まった。バイク雑誌を買うようになるとカワサキのKDXが欲しくなった。200㏄のMTⅩでは、林道ツーリングに行くには物足りなかった。結局KDXを買ってしまった。後は対向車の来ないコースで思いっきり走ってみたかった。ライディングスクールに試に参加したのが、この川越のコースだった。筋書きどうりにレーシングクラブまで造ってしまった。